6/11「マクロ×ミクロ ボイストレーニング」コラボ講座のご報告

東京のボイスパフォーマー・徳久ウィリアムさんとのコラボ講座をしました!
 



徳久さんは韓氏意拳をされている、武術仲間です(私は韓氏意拳は半年に一回稽古受けられれば良い方ですが。入会もまだしてない…)。
数年前からお世話になっておりましたが、お声かけいただいて、
GWに神戸で、そして今回東京でコラボさせていただきました。
 
 
 
私は声のトレーニングにおいては、声帯のふるまい方や、声の響きにかかわる喉の筋肉をどのように使ってるかを分析し、
出したい声を出すために使いきれてない筋肉を働かせていく、というレッスンの仕方を行なっています。
 
細かい喉のパーツを一つずつ整理することで、出したい声を狙って出せるようにしたり、
喉の可動域を広げることで、発声という運動の負担を軽減させていったりすることを目指しています。
最近やってる「声の地図シリーズ」は後者のレッスンです。
 
大体皆さん、「声地図」の2時間ほどのレッスンの後、
「何も意識しなくても声を出すのが楽」「いつもより勝手によく響く」とおっしゃってます。
今回のコラボ講座では、10分ほどのエクササイズをやっただけで「喉の詰まりが抜けた」などなど、おっしゃってました。
すごい即効性あります。
 
私自身、このトレーニング方法を知ってから、
 
・うまくいった時と同じように歌おうとするのになぜかうまくいかなかったり、
・「こうしたらいいよ」と受けたアドバイスすら再現することができなかったり、
・少しの疲労や寝不足で声が全く出なくなったり、
・何をどう意識していいのかわからなかったり、
・どうがんばっても音程が下がってしまう、
・1時間も歌えばもう声ガラガラ、
・勝手にお腹が力んでしまう、
・疲れにくい・力みのない・「自然な」出し方をしたら声ヒョロヒョロ。
 
といった、どこからどう改善したらいいのかわからない泥沼状態から、大幅に脱出することができました。
 
声のしくみがわかって、自分がなぜ上手くいかないかがわかること。
どのように訓練を進めていけば、受けたアドバイスを自分の体で再現することができるかの具体的な仮説と検証ができること。
毎日毎日、目に見えて変化がありました。
 
 
でもやっぱりそれだけでは足りないんですね。
視点が部分的になりすぎて、ぎこちない、小さい音楽になってしまう。
「操作してる」のが目に見えてしまう。それでは芸術にならない。
即効性があって「すぐにわかる」分の、浅さというか。
 
 
 
そこで!徳久レッスンです。 
 
徳久さんのレッスンは、とても感覚的です。
自分で自分の感覚を捉え、でも自分の中だけに閉じこもらず、
相手と自分の関係や、自分と今いる空間の関係とも同時に繋がり続ける方法を教えてくださいます。
そうすることで、「細かい部分」を「大きい視点」の中で感じることができ、
部分に居着かず、流れや広がりを作ることができます。
自分のからだの感覚から離れないことで、ただ大げさなだけではない、地に足のついた、リアリティのある言葉を相手に伝えることができます。
  

こういう感覚を、私は合気道の稽古を通してうっすら経験してはいたのですが、
どうやったら合気道をやったことのない人にこの身体感覚を経験してもらうことができるのか、どうやったら具体的に歌に応用していくことができるかがわかりませんでした。
 
 

そこで出会った徳久さん。
 
いやー、しかも再現性があるんですよ、これ。
普通は感覚的なことって、一呼吸ついただけで、同じことでも今さっきの感覚と変わってしまうんですけど。
これは、何か現象が起こった後に確かめるような、つまりもう現実に存在しない「過去」を感じる時の感覚や、
今までに経験のないことをがんばって頭で作る「イメージ」ではなくて、
自分の身に、今、起こり続けている、今の流れを観続ける稽古だからかな、と勝手に思っています。
 
 
 
この意識の使い方は私の強力な土台となり、今も私の中で育んでいます。
  
そして、私がコツコツと学んできた細かいボイトレ法と魔改造させることで、
相乗効果がありましたし、どちらもなくてはならないものだと実感しました。
それは生徒さんにとっても同じでした。
 
部分が整うことで、全体の動きや見え方も変わる。
大きな視点がなければ、部分を連動させることができない。
 
 
 
でも、こういった声のワークは
「ただ上手で器用なだけじゃなく、感動できるパフォーマンスをするため」
でももちろんあるのですが、
全ての人が感動できる声を発せなくてもいいと思っています。
 
声や言葉に苦手意識がある人にとって、
自分の力で、すぐに声が変えられたり、声を出すことが楽だと感じられたりすることは、
一歩踏み出すための勇気を得るために必要です。
 
「おはよう」で1日が始まって「おやすみ」で1日を終える。
その合間では「お願い」をして「ありがとう」を伝える、って繰り返しをしている中で、
声の担う役割は大きいです。(ええ声や表現力が必要、という意味ではない)
 
もちろん、体が開いていて、リアリティのある言葉を発することができる、
「パフォーマー」であるに越したことはないですが、
体が閉じて、棒読みのような言葉しか発することできなくても、
それでも声を発して大丈夫だと思えること。
その結果、声を発することができること。
 
声という道具の使い方を知っていて、「言わずにいよう」の選択肢しかなかったのが「言うこともできる」「こうしたら聞こえやすくなる」って選択肢が増えるだけで十分。
何か強大な守りたいものを抱えたままでも、マイナス10がマイナス8になるだけでもずっと体は軽いです。
 
誰でも声は伸びる可能性を持っています。

声が、何か立派なものとしてではなくて、生活のすぐそばにある、いつでも・どのようにでも扱える選択肢であってほしいです。
そして、そのためにボイストレーナーを利用してほしいなと思います。

6/9「声の地図を作る ドス声の極みリターンズ」@横浜ご報告

4回目の横浜レッスン、させていただきましたワ――.+:。ヾ(o・ω・)ノ゚.+:。――イ
 
 
が、3回目の報告をしそびれておりました、すみません( `д´ ;;;)
   
  
今回は、4月と同じ、「ドス声の極み」と題しまして、 
地声を中心にレッスンしました。
 
強いガッサガサのダミ声は、もちろんヘルシーに出すことはできるんですが、
むやみにがなると痛めてしまう可能性が大です。
 
ので、体を動かしながら、全身の力を借りながら、ドス声を拓いていきました。


まずは呼吸練習で胸をほぐしつつ、風船の観察をしてみます。
 
野口体操で、「からだは水がタプタプに入った一つの水袋や」っていう喩えに最近ハマってます。
 
歌う時においては、水袋っていうか、水風船やと思ってます。
声を発するにつれて、中の水がチューっと出ていく。
でも、それもどこか一箇所だけがしぼんでいくのではなくて、
全体が均等に縮んで、中の水が追い出されていく。
 
からだも同じで、どこか一箇所だけがんばるんじゃなくて、全部ががんばってるよ、
というイメージを深めるために、風船を観察してみます。
(さすがに貸しスタジオで水風船で遊ぶのはまずいので、普通の風船です)
 
ほんで、風船がただ縮んで、中の空気を出ていかせるだけじゃなくて、
風船がどこか一箇所縮めば、別のどこかが伸びていく。
どこか一箇所が縮めば、そこにいた空気は伸びた別の場所に移動する。
 
そんな風船が、自分の体だと思って、
 
お腹だけ縮む、
お腹が縮んだら背中が伸びて背中に空気が入る。
右腕と左足が縮んだら、どこが伸びるかな。
 
といった具合に、からだで遊んでみます。


そんで、そこに声を乗っけてみる。
からだに従って、出てくる声にまかせる。
いい声かどうかとか、なんも考えない。
ただ、からだの動きに伴って、声が変わる、というところを味わう。
 

てなところで体をほぐしたところで、あとはガンガン声出していきます。✊↑↑
 
でもむやみにがならないように、
特に今日は、発声時に声帯で息がせき止められる感覚を
よく観察しながら、練習していきます。
 
ドスい声を中心に、途中、裏声や吸気発声で調整しつつ、、、
進むにつれて、
だんだん、
みんなの声に、
オッサンの気配がしてきます(^^)

細い、上品な女性らしい声の方が、クリアなハッキリした声にも(^^)
 
全員がアメ横のおっちゃんみたいなガサガサな声で喋るというのも面白いですが、
それだけでなくて、オッサン要素を足すことで、
普段の自分の声をクリアにハッキリさせてくれる、
というのがドス声練習のええとこです。
 
 
だから、どんな声も栄養になってくれるんです。
声の好き嫌いをしないことで声が広がっていきます。
毎日毎日、広がっていって、毎日毎日、知らない声に出会える。
絶対声は伸びていくんですよ〜。
 
 
 
P.S.
今回は他にも、無声・有声・ダミ声を出しながら動いた時の、3種類での体の軽さの違いを実験したり、
声から始まる喉の振動を受け渡す、みたいな不思議系のワークもいっぱいしたんですが、
長くなるので割愛します。
理屈攻めで始まった横浜レッスンも、少しずつ「だから何やねん」的な不思議系ワークを織り込み、胡散臭い匂いがしてきました(^^)
たのしい。

6/6(木)「声あそび〜物語を十全に生きる〜」@神戸海運堂 ご報告

1年ぶりくらいに、神戸は海運堂で教室を開きました。
 
これまでは、一応「ボイストレーニング」と題していたのですが、
特に教えたりトレーニングをほとんどしないのにボイトレと名乗るのは心苦しく、
今回は潔く「声あそび」と名乗ることにしました。
(しかしこの数日後に、同じ「こえあそび」と題するワークショップの存在を知る……)





最近考えていたこと。
「感覚的に教えられるとわからない」とよく言われること。
それは確かにそうで、感覚は誰かと共有することができません。
どこまでいっても感覚はその人固有のものです。
 
よく起こりがちなのは、
教師側の感覚が教師固有のものであることや、教師が色んな経験を経て条件が整った結果として起こった感覚であることをわからずに、普遍的な正しさであるように生徒に伝えてしまい、
一方で、教師と全く違う体と経験を持っている生徒は、伝えられた言葉によって全然違う方向へ向かってしまうこと。
 
もし教師と同じ現象が起きていても、生徒は教師とは全然違う感覚が生まれる可能性があります。
 
だから、歌のレッスンでは、色んな言葉を使いながら、教師側の感覚と、生徒側の感覚の重なるポイントを探していきます。
そのために、医学的な知識や、理論が重視されることもあります。
 
 
でも、ですよ。
そういった「わかりにくい問題」と「わかるための言葉探し」は、
そもそも「わからない」はずのその人個人の感覚を、無理くり共有しようとするために起こることです。
そして、そのために、言葉にはまりきらない、カオスで曖昧な部分をこぼれ落としてしまうかもしれない。
しかも共通の言葉が見つかって想像できたところで、相手が本当に感じている感覚とは全く別物としてしか感じられません。
 
だから、声を育てていくにあたって他人との共通事項を探すのは、
パフォーマンスしたり、別の誰かとコミュニケーションを取ることを目的にするにはもちろん必要だけれども、
その前に自分の感覚の中で、感覚から感覚へ広げて、味わっていくことも必要なのではないかと思いました。
 
 
 
長くなりました。
 
というわけで、今回の「声あそび」では、「物語を十全に生きる」をテーマとし、
言い換えますと「他人の気持ちはわからない」というレッスンを行いました。
 
普段は、
「思いを伝えるために声を使う。」
「じゃあどうやって思いを伝えるために言葉や声を活かしきることができるだろうか。」
と考えてレッスン内容を練ってますが、これも覆されます。
別に理解なんかしなくてもええやん。無理やで。というのが最近の考えです。
 
  
この日は、声のプロフィール作りをしました。
体を動かしながら出てくる色んな声を観察する。
その中から、好きな声を見つける。
そして、その好きな声を徹底的に観察する。
その好きな声の色、重さ、大きさ、動くスピード、性格、好きな食べ物、などなどを考えてみる。
そしてみんなの前で発表して、その声の紹介もしてみる。
 
それぞれの人が、ある種の声から色んなことをイメージして言葉に表しますが、
発表を聞いても「へーそうなんや」としか言いようがない。
 
でも、それでいいんやと思います。
「どう役に立つか」は見出せないですけど、
でも、共感したり、何かを理解し合えた時よりもずっと、その人の姿がそのまま感じられるようで心地いいです。
 
 
 
ただ、たとえ自分の中だけのものであっても、言葉に変換した時点でこぼれ落ちるものがあると思うので、
感覚を言語化してみる、という作業は「自分の中のカオスな感覚を味わう」という主旨と矛盾しているようにも思うのですが、
やっぱ人間、観察するためにも言葉使わないとどうしようもないよね。
と今は妥協して開き直っています。なんかいい案あれば教えてください。